132• 1464-1467• 高氏は高階氏の一族で、鎌倉時代から足利氏の執事としてその家政を統轄する地位にあり、父・師重もこれを勤めていた。 は、土地を治めるよりも主君足利氏の補佐を優先する執事一族としての高階氏の性格が現れているのではないか、と推測している。
9畿内周辺の戦いでその精強さが発揮されたのは、土豪クラスから名主・百姓といった成り上がりの武士クラスまで、畿内周辺の土着武士たちが師直らの軍団を構成していました。
師直が後世に悪し様に書かれるのは、この時代の知識階層で多く記録を残したのは貴族・寺社勢力であり、彼らに反抗する新興武士層や彼らの擁護者である足利氏に対する反感もあったと思われる。 当地には師直の塚が遅くともの19世紀初頭には山田村という場所に存在したことが、3年()完成の「山崎通分間延絵図」によって確認できる。 亀田によれば、師直と直義の派閥を分けたのは、主に恩賞の問題であるという。
3幕府内部は、将軍尊氏と政務を取り仕切るの足利兄弟による制となっていたため、やがて両者の間に利害対立が頻発。
このうち、「菅原在登が京都市中で若者に殺された」という点のみは史実である(『』観応元年5月16日条)。 その後も攻めや討伐で大いに活躍し、創設にあたり軍事において大いに貢献した。
6南北朝の戦いが続く中、恩賞の素早い処理が求められた。
1340年代後半になると、ばさら者の被害者から相談を受けることの多く、自身もばさら嫌いだった足利直義との関係が悪化し、観応の擾乱が勃発。 後年、太平記の流布と共に師直は史実のように尊氏に忠義を尽くした文武両道の才人では無く、非道で欲の深い悪人として描かれ、以下のような描写で知られます。 によると、貞和4年 )、師泰軍が聖徳太子廟の太子像を破損し廟を焼き払うという暴挙は、1次資料から確認できるという。
3足利家では尊氏の祖父家時が、子孫三代の間に天下が取れることを願い、置文(おきぶみ=遺言状)を残して自殺するという事件が起きており、その置文は師直の祖父師氏(もろうじ)に宛てられていたのだ。
あくまでも兄、尊氏・師直(北朝)に対抗する策だ。 まず、師直・師泰が用兵・作戦に当たって、寺院や神社などの精神的な権威をおそれなかったことから、自由な作戦行動をとることができたことがあげられます。
13とにかく強い!尊氏軍のエースだった高師直 しかし、尊氏の執事だからと言う理由だけで出世したわけではありません。
例えば、『太平記』が語る逸話では、師泰は東山に山荘を建設しようとして、その地にあったの墓所を掘り返し、これに対してが異議を唱えると、門跡(総長)の(皇子)の寵童(ちょうどう、愛人の少年)に命じて在登を殺害させた、という。 もとは同市樺崎八幡宮境内にあったが、明治時代の廃仏毀釈に際して移されたという。
2人物 [ ] 革新派の宰相 [ ] 精力的な政務活動 [ ] 高師直は、数々の戦功を挙げた武将であるが行政官・政治家としての実務能力・内政能力にも秀でており、その主たる業績は、として室町幕府の政治機構への改革を断行したことである。
亀田俊和は、この法は事前の軍議で武将たちによって合議的に考案され、当時の足利氏の実質的な総指揮官であるが「承認」、その後、師直が直義の命令で「採用」したというような経緯の可能性も有り得なくはないと指摘し、分捕切捨の法のみによって師直の合理性を量るのは慎重になるべきではないか、と述べている。
14また権威におもねることなく自己の信念を貫き通した「ばさら大名」というべきであろう。
この女性は太平記では「侍従」と呼ばれているので侍従と表記します。 さらにこので・隠岐守護のの裏切りが起きるが、『』や『仮名手本』で描かれる高貞の妻への高師直の横慕はあくまでも的表現らしく、師直どころか高一族はこの事件に関与した気配はないようだ。
観応元:正平5年(1350)10月末、九州に逃れていたを討伐するために尊氏とともに出征したが、南朝と和睦して再起した直義が京都に向けて進撃しているとの報を受けて備前国より反転、翌観応2:正平6年(1351)1月には京都で直義党諸将の軍勢と戦うも利なく()、丹波国を経て播磨国へと退き、月末には山陰地方の戦線を突破してきた師泰と合流を果たすが、2月の摂津国打出浜の合戦で足利直義勢と戦って敗れた。
しかしやがて尊氏の同母弟直義とし,4=5 49 年,尊氏に迫って直義をから退けた。
20むすび 元弘の争乱以来、政治の動向に大きな影響を与える勢力となった畿内近辺の土着武士層は、室町幕府草創期では南朝側と幕府側にわかれましたが、幕府側では一部は将軍直属の御家人となり、大部分は守護の下に入りました。