スペイン 風邪 は どうやって 終息。 日本はパンデミックをいかに乗り越えたか~100年前のパンデミック・スペイン風邪の教訓(古谷経衡)

<本病の死亡者数は大体において発生患者数と相平行して増減ありといえども、患者に対する死亡比例は最初は比較的低く、流行の経過とともに漸次その率を増せり(中略)かくの如く患者に対する死亡率の漸次増加を示したるゆえんは、大体において病勢に関係せるものにして、初期においては虚弱者、老幼者を除きては死亡するもの少なかりしも、流行の経過とともに病勢悪変し肺炎を併発する者多く、これがために虚弱者のみならず強壮者にて倒れたる者、少なからざりしと、その他種々の後発症により死の転帰を取りたる者多数あり(後略・内務省,106)>. スーパーで買い物する人を見渡せば、みんなマスクをしてる。

「はやりかぜ」にかからないようにする ・病人または病人らしい者、咳をする者に近寄ってはならない ・人がたくさん集まっているところに立ち入らない ・人の集まっている場所や汽車などでは必ず呼吸保護器(マスク)をかけるか、鼻や口をてぬぐいなどで覆う。 もともと獣医師だったが、留学先のオーストラリア国立大でインフルエンザ研究を指示されたのだった。

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とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し 兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。 そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史から得んとするものである。

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内務省の記述で興味深いのは、第1回流行を記した次の個所である(*筆者にて現代語訳等している)。 この辺りは現在の状況と極めてよく似ている。 5月には北アフリカ、インド、日本にも感染が拡大し 、6月には中国でが報告されたが 、7月にオーストラリアに達した後、パンデミックの第1波は後退を始めた。

1918年4月を迎えた時点で、アメリカ中西部および東海岸、フランスの複数の港でが発生しており、4月中旬までに流行は西部戦線に達した。 出典:速水,146 (1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。

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これだけテクノロジーが発達した今でも新しいウイルスが出てくると解決まで時間がかかってしまいます。

スペイン風邪は1918年に発生し、1920年に収束しています。 海外との出入国の増加 100年前は海外との移動手段は主に船であり、一般人はほとんど行き来がなかったと思われます。

スペイン風邪が流行した当時はバブル経済の真っ最中 スペイン風邪は、1918年から1920年にかけて全世界で流行したインフルエンザである。 そうこうしているうちに、翌年5月の終わりには、手のつけられないほど疫病が市中に蔓延し、おびただしい数の人が亡くなり出した。 インフルエンザウイルス亜型の名称におけるHとNは、それぞれヘマグルチニン(hemagglutinin)およびノイラミニダーゼ(neuraminidase)という蛋白質を表す。